アダム・ドライバーが映画初主演を飾った長編作品。本作でいきなりヴェネチア国際映画祭主演男優賞を受賞し、共演したミナ役のアルバ・ロルヴァケルも同映画祭で主演女優賞に輝いた。
胸が張り裂けそうな状態がいつまでも続く本作は、まるで拷問のようにズキズキと心を痛めるける映画だ。
今回は、『ハングリ・ハーツ』の物語とタイトルに関連する考察とレビューを綴っていく。
Topic—本作のタイトルに隠された意味と、ジュードがミナを愛し続けた理由。そして、無音が意味するものとは…。

『ハングリー・ハーツ』あらすじ

レストランのトイレで偶然閉じ込められ、出会う男女。やがて付き合うようになり、妊娠が発覚する。ジュード(アダム・ドライバー)は晴れて父親になり、ミナ(アルバ・ロルバケル)はお母さんだ。しかし、ミナは妊娠中から様子が変わり、出産を機におかしくなってしまう。息子が危険だと感じたジュードは、彼女から息子を守ろうとするが…。
【監督】
サベリオ・コスタンツォ
【出演】
アダム・ドライバー(ジュード:夫)
アルバ・ロルバケル(ミナ:妻)
【日本劇場公開日】
2016年10月15日(製作2014年)
【時間】
109分
【国】
イタリア
『ハングリー・ハーツ』考察とレビュー※ネタバレ注意!
では、考察とレビューに入っていこう。
沈黙でも静寂でもなく、無音を使う演出

アルバ・ロルヴァケル演じるミナが、妊娠中に霊媒占いのお店に入る。
そこで一度、無音が映画のあらゆる音を奪う。
ただ単にお店の中だけの音を消すのではない。外部の音も一切聞こえなくなるのだ。
そこで何の話が交わされたか隠したいのであれば、わざわざお店の外の音まで消す必要はない。それに、息子がインディゴだと言われたという内容も、次のシーンで明らかになっている。こうなると、ミナに占い師が話した内容を隠したかったわけではなくなり、他の意図が見えてくる。
外部からの遮断。つまりそれは、ミナが自分の世界に閉じこもる瞬間だ。いや、この場合なにかの悪魔に取り憑かれたといったほうが正しいのだろうか。我々観客には聞こえて良いはずの音もすべて消え失せ、無音の時間が流れる。ミナにしかわからない世界が開けたと同時に、我々を遮断して閉め出すための意図的な演出だとしか思えない。
実際にその無音は非常に意味深く、ミナの不可解な思想の恐ろしさを増幅させている。
我々は無音によって、無意識のうちにミナを理解できないジュード側に立たされているのだ。
『ハングリー・ハーツ』タイトルの秀逸さ

ハングリー・ハーツ。直訳すると、飢えた心。この映画では、ミナが子育てによって「私が守らなければならない」という強い母性を見せる。それはつまり、母親としての役割に対して飢えている。そして、ミナは自分の息子やジュードからの愛にも飢えている。だから、ハングリー・ハーツなのだ。
そして、さらにもう一つ。心は心臓、つまり生命力とも置き換えられるのだ。すると見えてくるのは、ミナの不可解な信仰の犠牲になって、腹を空かせて栄養不良に陥る息子の姿だ。飢えによって危機に晒される生命もまた、このタイトルが指し示すものである。
これは憶測に過ぎないが、実はもう一つの意味もあるのではないかと考えた。ミナが医師を信用せず、謎の本に毒されていく過程は、飢えた悪魔がミナを支配しにくるようなのだ。「飢えた悪魔の餌食になるミナの心」とでも言おうか。
- 愛に飢えた心
- 飢えで脅かされる生命
- 飢えた悪魔の餌食になるミナの心(?)
なぜジュードは妻のミナを愛し続けたのか

ミナが我が子を渡したくないのもわかる。おかしくなってしまった妻を愛し続ける、いや、愛し続けたいと思うジュードの心情も理解できる。
これは圧倒的にアダム・ドライバーとアルバ・ロルヴァケルによる演技の賜物だろう。台詞が少ないなか、空気感や感情を読み取れるよう表現している二人の“リアル”は、映画と現実の境界線を超えた。
僕も妻と娘がいる。愛おしいと思う気持ちは誰にも負けないし、子どもを取り上げたくも、取り上げられたくもない。もし妻がおかしくなっても、簡単に別れて放っておくことなんかできやしないと思う。きっと愛し続けたいと願うはずだ。
そのもどかしさや難しさ、愛おしさからくる怒りと疲労、行き先を失った愛情と行きすぎた愛情を見事に体現している。
ジュードはなぜミナを愛し続けたのか。それは簡単だ。
愛したかったからだ。
家族揃って幸せになり、三人で人生を歩んでいきたかった。大好きな人と愛おしい我が子と、共に人生をあゆんでいきたかっただけなのだろう。
二人の間でしかわからぬ愛情は、二人の間でしかわからない。だが、わからないからこそ、ジュードが愛し続けたいと思う気持ちもまた、理解できてしまうのだ。
僕らもその愛の所在を問われたら、果たしてどこまで鮮明に言語化できるのだろうか。それも、わからないだろう。
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