変わり者だらけのこの世の中で、僕はどう生きるのか。

変わり者だらけのなかで僕はどう生きるのか

幼少期から「変わり者」と呼ばれていた。妙に大人びていて何を考えているかわからない目。好き嫌いをハッキリと言いつける災いの口。小中高と、必ず先生と喧嘩したり問題を起こしていたりした。

今では常識という仮面を身につけられるほどにはなったが、それでも変わり者であることには違いない。

きっと、僕は変わり者と言われることで、心底満たされていたのだと思う。「自分は変わり者なのだ。この考え方を持っている時点で、他者とは違う」と、そんなふうに思っていたのだ。

しかし、当然ながらそんなことはない。映画を観続けた高校生の僕は、社会がみな変わり者だということに気がついた。それでもなお、僕は逸脱していた。誇大表現ではない。周りからもひたすらに言われ続けてきたし、自分でもそう思う。自慢でもない。これは一つの事実だと思って受け止めてほしい。

だが、いくらここで僕が変わり者であるかを親切に説明しても、読者にとっては1mmの価値もない。エピソードを語ったところで、僕も満足しない。変わり者は、変わり者であるべき真価を発揮しない限り、変わり者だというだけでは何も変えられないのだ。

では、変わり者が真価を発揮するときはいつだろうか。

それは、周りを巻き込んだときだ。

小さなコミュニティではない。もっと巨大で数えきれないほどの人間たちを巻き込むことで、変わり者は意味をなす。つまり、変わり者であるが故の、普通とは違う考え方をより多くの人たちに発信し、それが影響を与えて初めて変わり者になるということだ。

たとえばピカソやダヴィンチ。彼らは変わり者と言われながら世界に多大な影響を与えた芸術家だ。自分の変わった思考を表現の世界に映し出し、それを見た者に感動や価値を与える。これこそが、変わり者が変わり者であった証。変わり者が真価を発揮するときなのだ。

僕の敬愛する宮崎駿も、子供のような変人だ。「ああはなりたくない」と思うのに、作品はとてつもなく素晴らしい。感動を通り越した価値を与えてくれる。

だからこそ、僕は今に満足したくない。表現を怠りたくない。この思考で誰かに価値を与えたい。すべての人が変わり者であるこの世の中で、自分が変わっていることを証明するべく生きていきたいのだ。誰かに強制されるわけではなく、自分自身の心に従いながら、生きていきたい。「人生、楽しまなきゃ嘘だ」

そんなことをつらつらと、今日お風呂に入ってて考えていたのだよ。何もしていないときほど、考えが巡る時間(とき)はないね。

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この記事を書いた人

中学高校で映画にハマり、20歳までに鑑賞した作品は1,000を超える。
現在はフリーライターとして、映画のコラムや企業のホームページなどの執筆を担当。映画のジャンルは問わず、面白そうな作品はなるべく映画館で鑑賞する“映画館好き”でもある。

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