映画は僕にとって、「人生そのもの」だと言っても過言ではない。
映画からさまざまな教養、思想、歴史、人物を学んだから、「人生の先生」と言っても良いだろう。
映画にハマったきっかけは、詳しくは覚えていない。
中学生の頃、仲の良かった友人と『アメイジング・スパイダーマン2』を劇場へ見に行ったことがきっかけだったような気もするし、同じく中学生の頃、心臓の手術でしばらく入院していた時に、母の友人から映画のDVDを貸してもらって鑑賞したことがきっかけだったような気もする。
どちらも衝撃的な感動を受けたわけではなかったのだが、なんとなく映画というものに惹かれ、あらゆる作品を見始めた。
母の知人に映画が大好きな人がいて、直接会ったことは数回しかないけれども、僕にDVDをたくさん貸してくれた。その作品群が良かったのかもしれない。『ショーシャンクの空に』『リトル・ミス・サンシャイン』『羊たちの沈黙』と、まだ中学生であった僕に対しても、きちんとした良作を貸してくれたのだ。
当時、僕の家のテレビはそこまで大きくはなく、40インチくらいだったと思う。それでも部屋を暗くして鼻かみようのティッシュを机の下に置き、飲み物をセッティング。完璧な状態で一人上映会をした。
当時は今日におけるサブスクというものがなかったから、ほとんど映画館に行くかGEOかTUTAYAに行って借りてくるかしかなかったから、テレビで映画を見るという体験もそこまでしたことがなかったはずだ。
僕は真っ暗になった部屋で、一人、鑑賞を続け、芯が熱くなる思いをしながら興奮をその胸に抱いていた。
高校生に上がり、自分でアルバイトをしてお金を稼ぐことができるようになった。僕はさっそく、映画にそのお金を注ぐこととなった。平日は学校をサボり、家で映画を鑑賞し、土日は映画館をハシゴしてさまざまな映画を見に行った。気がついたら、高校三年間だけでも900本近くの映画を鑑賞していた。今でも僕の心に残り続けているアーミル・カーン主演の『p.k』やアリシア・ビキャンデル主演の『エクス・マキナ』、アダム・ドライバー主演の『パターソン』、マット・デイモン主演の『ジェイソン・ボーン』などは、まさにこの時代に映画館で鑑賞した作品である。そして、運が良いことに、高校時代には映画好きの先生にも出会えた。その先生は、丸々と太った大きな体とは裏腹に、繊細な心の持ち主であり、政治・経済の担当だった。いい年をした30歳頃だったか、小さな交通事故のときに警官から聴取を受け、書類に「無職」と書かれたことから悔しくて大学を目指し、すぐに教員免許を取得すると、実際に先生になったという変わった人だった。その先生は、ジーン・ハックマンやウィレム・デフォーと言った俳優が好きで、高校生には難しい映画をたくさん知っていた。そう、上記に挙げた二人の出演作といえば、アラン・パーカーの『ミシシッピー・バーニング』だ。これを授業の時に見せてきた。まったくの衝撃だった。授業は大概50分だったし、先生の話をしてから鑑賞に入るため、ぶつ切りになって映画を鑑賞した。僕はそれがいやで、自宅で通しても見た。ほとんどの同級生が寝たり別のことをやっている中、僕は黒板の前に貼られたスクリーンに釘付けとなって、内で燃える生々しい炎を感じながら鑑賞していたのを覚えている。他にも『シンドラーのリスト』や『戦場のピアニスト』など、僕が人生においてひどく影響を受けた作品も、この先生によって引き起こされたものだった。
映画は本と同様に、史実を学べたり、ある特定の人物の人生を経験できたりする。そして想像的な空想の物語だって目撃することもできる。まったくの無秩序とも言える自由な世界が、そこには開けているのだ。
今、「映画は長いから見られない」という若者が多い。若者に限った話ではないのかもしれない。動画配信サービスのサブスクの普及に伴い、倍速設定や再生・停止が自在に行え、自分の裁量で好きに鑑賞ができるようになったから、それになれてしまったがために、映画館で座席に縛り付けられ映画を鑑賞するというのに耐性がなくなってしまった人も多いだろう。僕が高校生になりたてのころ、新卒の非常勤教師が、こんなことを言った。「映画館で映画を見にいくやつはバカだ。どうせDVDで安くなって見られるのだから、見たけりゃそれを借りて見たほうがお金も節約できるし映画館に行くという面倒なこともしなくて良い」と。本当にこんな調子で、いや、もっとひどかったかもしれないが、そう言ったのだ。僕は驚き慄いた。その非常勤教師は野村周平に似ていると言われ、年も近いことから女子や男子にもそこそこ人気があった。だが、僕は「映画館に行くやつはバカだ」という発言を機に、この非常勤教師に対する見方がマイナスの方向へと変わっていった。そもそもの話、そんな自己の考えを大衆の前でわざわざ言わなくても良い。そして、その発言に隠れた感性が僕とは合わなかった。たしかそのとき、僕は反論したと思う。「映画館に行って大画面で大音響で鑑賞するからこそ、その映画の本当がわかるのだ」と拙い語彙力で。何となくだが、その後もその先生とは火花を散らしたことがあった気がする。
とまあ、動画配信サービスが普及する以前からも映画を見られないという人は多分にいたのだが、サブスクの発展によって、そういう人たちが増えたのも事実だろう。
なぜ動画配信サービスの話をしたかというと、映画の魅力を語るためだ。映画とは、一つの作品として成り立つ。アニメやドラマのように断続的に続くものではない。地続きとなった時間の中で、一つの物語が始まり、終わりを迎えるからこそ、感動がある。その長くも短い一瞬に、人生や物語が集約されていることが奇跡的だ。一つにまとめられているからこそ、爆発的な体験ができる。これがぶつぶつと切れながら、間を置いてしまうことで、その一瞬の爆発的な感動を享受できなくなる。暖かいコーヒーは、カップに注がれた一杯を読書をしながら静かに、しかしその一瞬で飲み干すことで美味しさを感じるのだ。これが少し席を外して間を空けたり、冷蔵庫にしまってから次の日にまた温めて飲んだりといったことをしても、冷めて美味しくなくなるし、淹れたてのお豆本来の味を楽しめない。惰性的なつまらないコーヒータイムともなり得てしまわないだろうか。だからこそ、映画も断続的に見てしまうと、作品への情熱や面白さが冷めて萎えてしまうのだ。
今や自宅で簡単に映画を見られる時代だ。だが、映画の本当は映画館にある。見知らぬ大衆の中、個別に分けられた座席の中には孤独な空間が閉鎖的に解放されている。その中に沈みながら皆が一つのスクリーンを見つめ、だが一人ずつが自分の世界に入り、見て、考え、興奮し、熱狂するのだ。その熱が何となくスクリーン内を徘徊し、結果的に一体となる。この一体感が、同じ映画を見たという言葉には表せない仲間意識を生み、何となく楽しい。それが映画に対する敬意でもあり、自分の興奮にも変わり、”体験”となるのだと感じる。今の映画館は音響や映像美に力を入れているが、映画館と映画の本当は、きっと大衆娯楽としての力のほうが大事な気がしてならない。もちろん、音響と映像のクオリティもスクリーンの大きさも、映画を真に体験するためには欠かせない要素だ。それもまた、事実ではある。そうした技術的な側面にしたって、やはり一般家庭では到達できない体験がある。映画は芸術であり、娯楽であり、体験なのだ。そうである以上、映画館という非日常的な場所に訪れ、全くの他人と一緒に一つの映画を体感することは、やはりそれだけで価値のあるものなのだろう。映画を見るためだけに作られた特別な空間には、ポップコーンの匂いやスクリーン内の静寂、暗闇の中に渦巻く人々の興奮、それら一つひとつが我々の肌身に染みて心が振動する。そうした体験の先に、映画の本当があるのだ。僕はそうした体験の中に、映画の面白さを感じたのかもしれない。
今やショート動画がもてはやされ、短時間で”何か”を得られるものが流行している。たった数十秒で、要約された情報が手に入っては知識をつけたと思ったり、数十秒のダンスで始まりと終わりを端的に見て満足したりと、効率が良いといえば良いのだが、そこにはやはり記憶として残るものは少ない。ショート動画の流行は、まさに現代ならではの流行りだろう。しかし、だからといって一時的な流行ではなく、今後、当たり前になり得るとも思う。誰もがあらゆる情報を簡単に手に入れられる世の中になったからこそ、情報の価値というのは薄くなり、また、我々人間自身も自ら情報を選ぶということが下手になっている。だからこそ短時間で数多く見られるショート動画は、満足感と達成感がすぐに得られて喜ばしいのだ。
あえて言うが、僕はショート動画があまり好きではない。確かに僕自身、見てしまうこともあるのだが、己のルールで三つまでと定めている。見すぎてしまうのは己の意志とは関係なく、やはり中毒性があるからだから、行動的に制約しないとどんどんショート動画の沼にハマっていってしまうだろう。短時間だからといってショート動画の内容がきちんと頭に入っているかと言ったら、そうではないし、仮に覚えていてもあまり役に立たない。感動的な体験はできない。
では、なぜ映画や本が心に残るのか。それは、体験だからだ。映画なら映画館に行って座席に座り、予告を見て「さあ、いよいよ映画が始まるぞ」という期待感に胸を膨らませ、上映が始まる。その一連の流れ自体が体験であり、五感を刺激していることになる。本であれば、ページを捲るという作業が伴うし、インクの匂いに癒されることもある。ショート動画とは違って、長く時間をかけて、体験することができる。さらに、すっと流れいかず、長い時間の中で解釈する余裕がある。その時間があるからこそ、私たちは感じる余裕ができて記憶に残るのだろう。ショート動画は、いわば右から左に流れていくだけのものだから、あまり記憶にも残らない。気がついたら30分もショート動画を見ていたが、激しい後悔に苛まれるという友人は多くいる。僕の妻でさえ、そのようなことを、しばしば口にするのだ。一つ質問をしよう。長く時間をかけて育てた金魚と、近所の親戚が余ったからあげると言ってきた金魚だったら、どちらに愛着が湧くだろう。その二匹の金魚が同時に死んでしまったら、どちらに強く思いを馳せるだろう。命を比較するつもりはないが、人間とは残念なことにそういう生き物である。残念だが、別に悪いことでもない。ショート動画と映画の違いは、もしかするとそのような違いがあるのかもしれないな、と僕は密かに思っていた。
さて、映画は僕の人生そのものだと言った。比喩でも何でもなく、実際に映画でさまざまな興味を育み、いろいろなことを教わってきて、僕の価値観を形成する手伝いをしてくれたのだ。例えばLGBT映画では性の多様性を学び、恋愛映画ではさまざまな恋の在り方を知った。戦争映画では時代における愚かな人間たちの欲望と残酷なまでの現実を知り、ヒューマンドラマでは多様な人々の生き様やユニークな人生を観察することができた。SF映画では地球や宇宙などの興味の発端として、僕の世界が広がった。ミュージカル映画ではコミカルで大胆かつ娯楽的な作品としての面白さを知った。見て、感じ、考え、己の価値観に反映していった。それらが僕の人生に直接影響を及ぼし、矛盾を孕んで育っていった。もちろん一人で淡々と見ていたのだから、実社会とのギャップは大きい。少なくとも僕の周りの社会的なモラルや秩序なぞは、僕には関係がなかった。関係がなかったからこそ、社会には受け入れ難い異分子とされてしまったのだろう。家族には「サイコパスだ」「将来犯罪者になるんじゃないのか」と茶化すのと同時に本気で言われていた。学校でも馴染むというほど馴染んではおらず、それをわかった上で自分は自分を貫いていたから、僕に対する周りの好き嫌いは激しかったように思う。だが、基本的には一人でいるが、好きなことには没頭していたから、例えばバスケ部などではキャプテンとしてそれなりにリーダーシップを発揮していたように思う。さらに、映画は多様な題材や物語、感性で出来上がっている。だからこそ僕は、良い意味で多様的であり、悪くいうと矛盾だらけなのである。例えば昨今、メディアが取り上げる不倫騒動や薬物乱用などがあるが、その人の背景を知らない以上、僕は特に非難もしないし、否定もしない。不倫にしたって、皆が不純だの何だのというのは、社会が「うまくやる」ためにかたどっただけのイメージに過ぎないと思う。何か、何となく不倫は嫌だといって非難する奴ほど、馬鹿な奴はいない。不倫された奥さん旦那さんがかわいそうだとか、そうやって言う奴もいるが、それを決めるのは君じゃないし、ましてや事情も知らぬ外野が勝手に妄想してストーリーを組み立て非難することほど浅はかなものはない。自分がされたら絶対嫌だと言う奴もいるが、それはもちろん人間には感情があるのだから好いた相手が他の奴と交わっていたら嫌だろう。しかし、自分だって人間だ。たとえ結婚しようが子供が生まれようが、目の前に強烈に心を動かされる異性が突然目の前に現れるかもしれない。その時に社会の目を気にして自分を縛ることほど、愚かなことはないだろう。人間も生物なのだから、本能のままに好いた異性と絡み合って何が問題なのだろうかと思う。結婚という枠組みに収まった以上、おとなしくしている他ないのだとしたら、やはり僕は結婚というものには否定的になってしまうかもしれない。一方で、たしかに社会的に影響力のある有名人の不倫などは、表に立って何かをやっている以上、人々の目を気にするのも大事かと思う。それは生物としての勤めというよりは、人間としての仕事上での勤めであるのだが。そして一途に人を想うことの美しさというか信念というか、それもそれで高尚なものだとも思ったりする。
僕がこの日本に対して思うことは、よほど恥ずかしがりな民族なのだと思っている。もっと本能的な欲望に従っても良いのではないかと思う。もっと自然的に、ありのままで見つめ合い、絡み合うことのほうがよっぽどロマンティックではないか。だからこそ、僕は恋愛映画をあまり見ないのかもしれない。たしかに『君に読む物語』や『あと1センチの恋』『アバウト・タイム』『ゴースト ニューヨークの幻』などは見てきたが、それでもやはり純愛が持て囃されたりする。その点ではいささか疑問でもあり、美談のように着飾られた物語にわざとらしさを感じてしまうのかもしれない。それよりも『チューリップ・フィーバー』や『逢びき』などといった本能のままに人間と人間がぶつかり、交わる物語の方がずっと美しく感じるのだ。そんな正反対な映画たちを鑑賞してきたがために、僕は社会的な常識もそうではない非常識も、僕の価値観に組み込まれることになってしまったのかもしれない。不倫がダメだとか安易にいう奴は、要は自分の幅を「社会が」「周りが」とかいって言い訳して、そこそこの幸せが約束された安寧の地で「本当はこうしたい、ああなりたい、あれをやりたい」という本当の思いを押し殺して過ごしているだけなのだ。ましてや強烈に心を動かされる瞬間に出会ったことなぞないのだろう。
だが、僕にも社会的なモラルを気にするときはある。今現在、僕には妻も子供もいる。だから「本当はこうしたい」を、心のどこかで制約してしまっている節がある。だが、僕にはそれがわかっている。だから、できる限り心の赴くままに、妻と子供には申し訳がないが、強烈に心を動かされることには突き進むようにしている。僕が今の妻との間に子供ができて就職した時だって、結局一年も経たずにフリーランスの道を選び、行動した。妻には苦労をかけたが、僕にはその時間が今の自分のためになったと思うし、妻に対する感謝もしみじみと感じることができた。だからこそ、今、正社員になって、フリーの時の仕事を少しだけ続けて余剰資金を稼ぎ、そのお金で妻に服を買ったり家族で出かけたりなどをしている。そして、今だって正社員になったが、自分のやりたい文章表現というものには熱を注いでいる。朝早くカフェに行き、文章を書いている。燃えるように淡々と。やらない理由をたくさん並べ立てることは簡単だが、僕はそうして自分の情熱の傾けられるものをやっていないと、すぐに萎んでしまうから。「人生、楽しまなきゃ嘘だ」というセリフは、『フェリスはある朝突然に』という青春映画で主人公のフェリスが放ったものだ。彼は学校をサボり、友人とガールフレンドと街に繰り出して騒動を巻き起こす。父親に縛られた友人を解放に導き、己も自由に人生を謳歌するという物語だ。僕はこの映画に出てくる先述したセリフが、ずっと心の中に残っている。誰のための人生か。それは自分のためであり、次に自分の大切な人たちのための人生だ。自分を押し殺して鬱憤の中に埋もれてしまうのはもったいない。もっと自分を解放して楽しむべきだと思う。己の価値観を磨き、感性を育て流ことができれば、より人生が彩ってくるだろう。だから社会的な目を気にするよりも、自分を貫き通すことを意識した方が良いと思う。
こうした価値観が、先天的な直感のもとに軸が形成され、その後から次々と映画によって付け加えられては削ぎ落とされてきた。
映画は僕の人生そのものであり、先生のような存在だ。だからこれからも、もっと多くの映画を見ていきたいと思う。あなたもぜひ、映画を見てみてはどうだろう。
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